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先日、たまたま機会があって、南極観測隊に科学記者として同行された方のお話を聞きに行きました。案内を目にした時、私はちょうど映画「南極料理人」が観られないのに腹を立てているところだったので、実際に行かれた方が南極大陸の自然や歴史や様々な事柄を説明してくださるのなら、逃す手はない、と思いまして。
ちなみに「南極料理人」が観られへんのは、別に私がへんぴなところに住んでいるからでも、日程が合わないからでもなく、主演堺雅人の文字にすごく嫌な気分になってしまったからです。南極の基地生活へえ面白そうと思っても、南極で堺雅人さんと言ったら、すぐに連想されるのがアレであるがゆえに。
これは私の個人的な感情の問題で、堺雅人さんが悪いのではもちろんないし、ファンの方にも申し訳ないのですが、今でもまだアレの出来には怒りを抑えかねているので、どうも冷静になれません。
つまりGONZOが、私に謝れ。ああもう、グッズの手ぬぐいがカワイイなと思ってたのにさあ、なんでこんなどす黒い気分にならなきゃいけないんだか。でも、映画館でお金払ってまでは観ないけど、地上波で放映してくれるなら、観る気充分ですけどね。それはともかく、「南極料理人」関係での開催なのかどうかは知らないけれど、フライヤー(ちょっとぺらい、カラコピ?)もいただきましたし、行かれた時分に南極の基地で原作者にお会いになっているそうですし、このタイミングに何の関係もないこともないのかもだけどまあいいや。
とりあえず、南極大陸は日本の37倍の面積で、ほとんど岩盤の上に氷雪がのっかってて、その平均の高さが2290m で厚さが2450mだから、海面下160mのところがようやく岩盤なんだよとか、昭和基地よりも1000km内陸にあるドームふじ観測所(海抜3810m)では冬には-80℃近くにもなるんだよとか、危険な天候の時に外に出たら死ぬよ(とはおっしゃってない)とか、ふうん中国も最近南極に基地を作って研究はじめてるんだとか、アメリカは内陸部の基地までばっとヘリで物資を空輸するあたりさすがだなとか、ゴミ問題や地球環境問題等、興味深いものがありました。
別に南極のデータや歴史的な経緯あたりは、事典やら書籍やらを読めば良いようなものですが、そうは言っても、実際に現地を体験してこられた方から直に教えてもらえるというのが醍醐味なわけで。
観測隊付き報道員枠は2名だけど、志願制だから希望者がいない年は派遣されないとか、南極への興味を喚起するために、今年から観測隊の同行者を増やして一般の人もとか、そういうこと自分からは多分知ろうとしないしさ。
それにしても、アデリーペンギンのスライド、可愛かったな。 -
『膚の下』の後日談で、実加によると帰還後、梶野少佐(元)(以降元は省略)は八十ちょっとまでは生きていたことわかります。人間、そうそう長生きできるものじゃありませんし、八十も過ぎたらさっさと【不適切な発言により削除されました】。
そんでまあ、この後日談は実加が梶野少佐に会ったころよりさらにあとなので、もう梶野少佐は死んじゃってるのかなあと思います。なんせ、実加の語りが全部過去形なので。
となると、元UNAGの重鎮としてはお葬式をやったに違いなく、そのお葬式に間明少佐(元)がこっそり弔問しに行ったかもしれないと考えても、別におかしくはない。
というわけで、一度はやりたい葬式ネタです。何がというわけなのかわからんけど。さて、後日談の記述に従うならば、三十余年に及んだ火星からの帰還計画のうち、実加は最終段階の集団の一員であり、実加が目覚めた時、梶野少佐は七十歳近くでした。わかりやすいように実加の帰還時期を三十年目として、後日談は実加帰還時より二十年後としておきます。
そこで、七十歳近く=七十歳前であるとするなら、避難民の地球への帰還のころ、つまり『あな魂』時点で梶野少佐はおそらく四十歳は越えてないでしょう。私の四コマのネタ的には三十八歳以上がベストですが、そこはそこ。
実加が梶野少佐に「会ったときは八十を越えていた」のであるから、それは実加帰還時より十数年くらい後ということになります。そして、間明少佐の帰還時期が「遅い部類」として、その範囲をどう取るのかが問題なのですが、わかりやすく仮に二十年目くらいにしてみます。とすると後日談時点で帰還後三十年になって、生きてるとしたら七十歳過ぎです。仮に梶野少佐が八十幾つで亡くなったとすると、そのころ間明少佐は六十代になります。
九十以上、八十以上がよくある社会なら、六十越えはそう老けこんだ感じでもありませんね。また、私は歳の差がありすぎるのはちょっと…ですが、歳を取ってからの二十違いというのはそれほどでもないので、大丈夫全然いけます。(あに言ってんだ?)
で、そんな間明少佐はある日、新聞の死亡欄に載った梶野少佐の訃報と葬儀の案内に気づき、どうしようかと迷いつつ出かけて行くわけですよ。密葬だとお話にならないので、そこは適当に仏式のような無宗派のような通常のお葬式でお願いします。絵的に鯨幕は必須です。香典辞退をこれ幸いに、記帳のみで葬式会場にもぐりこんだ間明少佐は、白い花で飾られた式壇の遺影を眺め、彼我に流れた時間の差を思いつつ、自分も歳を取ったものだとしみじみしたりします。
喪主はありきたりに長男で、でも母親似なのか、あまり衛青には似てないなと思ったり。
しかし、間明少佐が適当に焼香を済ませお悔やみの言葉を述べて立ち去ろうとした時、ちょうど長男が隣に立っていた高校生くらいの息子に話しかけます、「つよし」と。
記憶の中の梶野少佐を彷彿とさせる、その声色と響きにはっとして振り返った間明少佐は、さっきはあまりじろじろと見ることもなかった孫息子の方が、祖父の若いころの面影をうつしているのに気づきます。孫にはもっといい名前を付けさせろよ、と思いながら、梶野衛青と間明彊志の二人ともが若かった日の記憶が、わぁっと頭の中にあふれるんですよ。これ以上の細かい設定は、たとえば梶野少佐と長男の【自主規制】、梶野少佐が孫息子と【自主規制】、実加にあったときには【自主規制】、梶野少佐と石谷少尉は【自主規制】。さすがに妄想が過ぎるので。
そうでなくとも、まあ仮定の多い話だこと。 -
ひょっとして、『グッドラック』がバーガディシュ少尉ふたたびだったので、『アンブロークンアロー』はリチャード・バーガディシュ三たびあらわるだったらいいなあと、夢想してみるのだが、きっとそんなことはないのだろう。
それに私は、バーガディシュ少尉よりも、四度目の梶野少佐を求めているわけで。〈火星三部作〉は月戦争編の第四部が、将来的に書かれないものか。もちろんこの時代の梶野少佐はお父上の方ですよ。はじまりは大尉からってのが良いです。
まあほら、〈雪風〉だって、第三部まで続くことになろうとは、誰も考えてなかったんだし。別に四部作になったってかまわない。三部作がトリロジーだから、四部作はなんだ、テトラロジーか?
