忍者ブログ

露草備忘録

〈火星三部作〉は『あなたの魂に安らぎあれ』と『帝王の殻』と『膚の下』(神林長平著、早川書房)で活動中。梶野少佐中心。

四度目のサムシング

毎度おなじみ、診断メーカーのキスのお題ったーより、
RTされたら梶野衛青が鏡に口付けて「もう、逃げられませんよ」と涙をぬぐう話を書いてください。
で、けっこう前にリツイートされてたんですが、すぐ書けると思ったらあにはからんや、なんかうんうん唸ってようやく書き上げられたんで、載せにきました。


 最近忙しくしていたから、風呂につかるのは久しぶりだった。ぜいたくだなと、梶野衛青は思った。
 追い焚き機能のような上等なものはついていない。熱めにはった湯が、体温と同じくらいぬるくなるころまでつかっているのが、梶野の好きな風呂の入りかただった。
 バスタブの中で足をのばすと、熱い湯に包まれたふくらはぎが、じんとしびれたようになる。血行が良くなり、全身の筋肉がほぐれて、疲労が湯に溶けだしていく気がする。
「ああぁ…」と、無意識に声がこぼれた。
 だんだん湯の温度が体温に近づくと、どこからが湯でどこまでが自分の肉体なのかわからなくなってくる。身体の輪郭があいまいになって、自己がゆらゆらと溶解する不安と恍惚。それもすっかり湯が冷めてしまうまでのことだが。
 バスタブの縁に頭をのせて、ぼぉっと天井を見つめていたら、天井にはりつく照明の形が崩れて溶けた。いつのまにか涙があふれて、目じりを伝っていた。頭を起こして座りなおすと、今度は頬を流れて湯の表面に落ちていく。すぐ横の壁にとりつけられた鏡に顔を向けてみたが、湯気で白く曇っていて、ぼんやりとしかわからなかった。
 自己憐憫の涙だなと、梶野は思う。部下たちには見せられない姿だ。部下たちどころか、だれにも見せられない。彊志にだって見せられないな。
 梶野は、間明彊志にだけは、いつだって無様な姿を見せることはできないと思ってきた。つい彼は、彊志の前では自分をよりよく見せようと、必要以上に有能で切れ者の梶野少佐を装おうとしてしまう。あまり成功したためしもなかったが、それがいけなかったのかもしれない。
 彊志の前で、ありのままの梶野衛青としてふるまえていたなら、なにかが変わっていたのだろうかと、アートルーパーの教育担当教官だった間明少佐のことを考える。いや、もう間明は少佐ではなかった。
 416ERUの石谷少尉は、面と向かって「あなたは八方美人だからいけない」と言ったことがある。残留派に占拠されたD66前進基地の制圧後、わが部隊が事態の収拾に手を貸しますよ、と恩着せがましく言ってきたから、遠慮なくこき使っていたときのことだ。
「どういう意味だ」と訊くと、自分の頭で考えろとばかりに無言で首を横に振られた。少尉のくせにその態度はなんなんだとむっとしたが、詰め寄るのも大人げないかと考えて、やめた。ひょっとすると、そんなところを指して、八方美人と言ったのかもしれない。
 もちろん梶野少佐は、ときには相手が大佐だろうと対立することもあるし、石谷少尉にだってそうそう良い顔ばかりして見せたことはなく、むしろいろいろと邪魔をした覚えならあるから、だれにでも良い顔をするというのは、だれのことも本当には信頼していないのだ、という意味合いのほうが近いのだろう。
 わたしは彊志のことを信頼していなかったのかな。アートルーパーの慧慈たちのことなど、本当には信頼していなかったのだから、間明のことも信頼などしていなかった、そういうことだろうと梶野は思う。
 うっすらと白く曇る鏡の表面を、手のひらでなでこすった。鏡に映る顔が、涙で滲んでぼやけていた。昔は、お父上によく似ているだの、お父さんにそっくりだねなどと言われるたびに頑強に否定していたものだが、確かに自分は父と顔立ちが似ているのだろうなと、鏡を見つめながら梶野は思った。
 鏡のなかの顔は、自分であって自分ではなく、父でもあり、特に強く望んだことはなかったが、もしも兄弟がいたらと想像したことのある兄であり弟であり、顔も知らない祖父たちや、彼につながるすべてのだれかだった。
 そして同時にだれでもない、と梶野は思う。鏡の表面に額を近づけ、鏡に映る両眼を覗き込んだ。ほら、だれでもない者が覗いているぞ。唇だけを歪めて笑い、ふと思いついて自分とキスをする。なめらかな鏡の平たい感触が冷たかった。
 ざぶんとぬるま湯に肩までつかりなおし、ばしゃばしゃと顔に湯をかけて、そのまま両手で覆った。
「もう、逃げられないんだ」
 生まれたからには生きるしかなく、逃げ場なんてどこにもない。ならばあとは前に進むだけだ。わたしはだれだ、UNAGの梶野少佐だ。
 そう自分に言いきかせると、梶野衛青は目元をぬぐった。そして再び、天井の照明を見上げた。


すんません、キスのお題なのに、毎回一ミリもラブい雰囲気になりません。つうか今回は梶野少佐しか出てきませんがな。それ以前に、微妙にお題をねじ曲げるところから話を進めるのは、自分でやっておいてどうかと思います。
でも、やりたかったから。

拍手

PR

コメント

コメントを書く