私は『膚の下』で、機械人がよくわからんけど統一意識?にいつでもアクセス可能であることになってしまったのが、すごく違和感があります。
正直『膚の下』(文庫)を読んだ時には、『帝王の殻』(単行本)の細かいところは忘れていましたけれど、慧慈とアミシャダイとの会話シーンを読んでいて、機械人がみな同じ意識を共有できるという(新)設定に、それはある種退行ではないのかと感じました。
しかしながら、〈火星三部作〉の年代的には一番古い時代を舞台にしているのであるからして、統一意識の分散という過程をたどるのだから良いのか? なんか騙されてないか?
その釈然としない気持ちを、私は普段『火の鳥』のロビタを連想することで、あまり意識しないようにしています。していますが、アミシャダイないし機械人について語ってもいいのではないかと思います、私以外の誰かが。
いや、本気で、『膚の下』とそれが支配する新版文庫の『帝王の殻』における機械人と旧版の『帝王の殻』におけるアミシャダイとの相違を、誰か検討して欲しいです。
私は梶野少佐のことしかぶっちゃけやりたくないのですが、一応梶野少佐と因縁があるのでアミシャダイを考えないのは片手落ちになるんですよね。だから、誰かやって。
つうか、月人の指導者って話はどこに行っちゃたのかしら。梶野大尉と月の夜とか。まぁいいです、そこらへんは第四部で、梶野少佐(新版)の父上であるところの梶野大尉を通して語られることになるというわけだ! 未来は不確定、そして過去も!
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