今回から、本格的に本文の比較を始めます。
「かもしれない」
「なにが」
「記憶さ。わたしは地球で造られたように思う」
「そんな昔に?」
「手や足は交換しているが精神中枢は交換していない。修理をすることはあるけどね。修理しているうちにユニットを丸ごと交換したのと同じになっているかもしれないが、記憶情報は残る」
「ずっと前にも訊いたことがあったな……機械人は死なないのかと」
「精神中枢や記憶ユニットは無限じゃない。容量には限りがある。過去のほうから消えてゆく。デジタルデータをクリアにするのとはちがう。消すというより、過去の記憶は圧縮されて変容していくんだ。そういう部分は自分の記憶としては感じられない。新しい記憶野も過去のそんな部分の影響を受けて変化していく。死につつ、生まれている、と言ってもいい。百年もたてば、わたしは別の性格体になっているだろう。いま現在のわたしを、子供のように感じるようになる。いまでも過去の自分を思い出すと、そうだ。百年も前のことはよく思い出せない。そのときの自分がいまの自分を生んだのだという感覚だ。もっと深過去のことは話に聞いたり学んだりした事柄と混じって、自分自身のことなのかどうかはっきりしない。しかし中枢ユニットは地球で生まれたのは確かだと思う」
「そういう機械人はめずらしいだろう。他の連中は火星生まれだよ」
「まだ若いのさ」
(『帝王の殻』単行本初版 #4 pp.173-174)
「地球の海の記憶は、ある。大昔の記憶だ」
「どういうことだ?」
「アミシャダイという名の機械人は、かつて大洋があったころの地球で造られたんだ」
「機械人は火星で生まれたんじゃないのか。だいたい、アミシャダイという名の機械人は、だなんて、きみはアミシャダイではない、というのか?」
「火星生まれの機械人は、アミシャダイという個性をもった地球生まれの機械人の原初的な記憶を受け継ぎながら、増殖した。だから、機械人はみんな、自分はアミシャダイだ、という意識をもっているんだ。アミシャダイというのは、パーソナルな名前というよりも、機械人のことを指すようなものなんだよ」
「知らなかったな……じゃあ、きみは、だれなんだ」
「オリジナルのアミシャダイだ。もっとも、そういう言い方には意味がないかもしれない。手足も身体も脳の一部も、交換修理しているからね。オリジナルの部分は無きに等しい」
「ずっと前にも訊いたことがあったが……機械人は、死なないのか?」
「ハードウェアには寿命があるし、記憶ユニットの容量にも限りがあるため、記憶は必要度が低いと判断された事項から消去されていく。過去の自分は死んでいく、とたとえられるかもしれない。わたしはオリジナルのアミシャダイである、という記憶はあるのだが、いまの自分とは違うとも感じる。オリジナルのアミシャダイが体験した記憶はいまや薄れていて、よく思い出せないんだ……ようするに、わたしは、過去の自分に生み出された新し個性なんだ。機械人は死につつ、生まれている、と言ってもいい」
(『帝王の殻』JA文庫二刷 #4 pp.190-191)
さっそく少し長いのですが、恒巧のネクタイの色から地球時代のアミシャダイに話をもって行った場面ですね。はい、文庫二刷のほうがよりわかりやすいように、そして『膚の下』に合わせて大幅に書きかえられています。全体的には機械人の記憶について、そんな大昔の自分は自分とは感じられない「死につつ、生まれている、と言ってもいい」という説明は変わらないのですが、単行本初版の「わたしは地球で造られたように思う」「中枢ユニットは地球で生まれたのは確かだと思う」と漠然としていたものが、「かつて大洋があったころの地球で造られたんだ」とはっきりしました。また、文庫二刷の「火星生まれの機械人は、アミシャダイという個性をもった地球生まれの機械人の原初的な記憶を受け継ぎながら、増殖した。だから、…アミシャダイというのは、…機械人のこと…」という箇所は、『膚の下』に出てきたアミシャダイに合わせて追加された部分です。そこで、単行本初版の「そういう機械人はめずらしいだろう。他の連中は火星生まれだよ」/「まだ若いのさ」という先輩ぶったアミシャダイのやりとりが、追加説明にそぐわなくなり、削除されてしまいました。
旧版のアミシャダイはちょっといかしてたのに、残念などと思いながら、4に続く。
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