"その他の読後感想"カテゴリーの記事一覧
-
翻訳機きしる夜更けに独りなるわが黄金郷(エル・ドラド)はいずこにありや
えー、記録によると今年の1月2日に読めたことになっている本の感想を、こんな大晦日にやっていてどうするのかと思いますが、そこは置いておいて。
ともかくペルーが舞台の小説を、海外旅行で年末年始ペルーに行ったのを幸いに、現地で読むということをしていました。が、小説の中のペルーよりも、どうしても現実のペルーのほうが印象深かったですね。あんまりペルーとは思わずに読んでしまいました。まあそこはしかたありませんね。さて、内容も随分と忘れた(ヲイ)ことなので、適当なことしか書きませんよ。
この話は、世界通信社の情報収集機ウィンカの一台が破壊されたので、原因究明のため現地ペルーに派遣された日本人カメラマン私=JHと、アメリカ人ジャーナリストのわたし=ソール・グレンのふたりの語りで進んでいきます。が、自動翻訳機を通して会話するふたりの現実が、別行動をさかいにどんどんずれていき、最後はよくわかんないことになります。とりあえず私=JH が主人公のようですが、わたし=ソール・グレンのワードレコーダーによる記述も、同程度の重みで存在し、また、私とわたしで語り分けがされているわけですが、これまでの神林作品における(主人公の)人称は、圧倒的に平仮名のわたしであるので、ふたり主人公と言っても良いのかもしれません。
というようなことはともかく、私=JHの前にひんぱんに現れる、おそらく幻想の女性リャナが髪を編んでいくと、一種の言語として理解できる、というところが美しいイメージで、それがペルーを舞台にした意味なのかなあと思いました。ただまあ、こんなぼっけらした男が結婚して子供がふたりいて、家庭をあまり顧みないから、奥さんが離婚を考え(るくらいに愛され)ていて、出張したペルーでトラブルに巻き込まれるものの、都合良く幻想の女性が現れて、監禁拷問されて辛い思いもしたけれど、最後はなんだかんだ幸せかもとか、そんなの私のアニムスが怒っちゃうだろ。
はっ、いけない。とにかく、幻想冒険小説風なのですね、というお茶を濁したようなフレーズでしめておきます、ではでは。ちなみに下のは、マチュ・ピチュ行って撮ってきた写真です。
PR -
4月24日読了。
ずっと主人公の名前の「宥現」を、目録や裏表紙の紹介文では振り仮名がないため、てっきり「ゆうげん」と読むと思っていました。しかし、書店でもう少し中身に目を通した時、「ゆうげん」ではなく「ひろみ」と読むと知って、へえそうだったのかそれならなぜか今まで縁が薄かったけれど、よし読み進めていこう。となったのは良いものの、結局のところ、読書中ずっと宥現が「ゆうげん」としか読めなくて辛かったデス。
なんだか身近な名前すぎて、脳内で漢字表記と結びつけられずじまいで辛い。フルネームの、本海宥現(もとみひろみ)ってのも、みの音が韻を踏んでるけど、逆にあんまり響きとして好きではないし。今から、もとみゆうげんにならんかね。なりませんよ。
で、そのせいかどうなのか、なんとなくいまいち乗り切れませんでした。
はっ、わかったわ、猫が登場しないからよ! て、んなわけねー。
ということで、以下、連作長編を形成する四話を特に区別せず、ごちゃまぜでいつものように簡単に適当かつ皮相的な感想を書きます。(※ネタバレ注意)まず、銀妖子のイメージが、何でかさるぼぼみたいなんですが、どうしたらいいですか!?
知りません!
という飛騨高山なことはともかく、やっぱり兄が消える件。
ところで、主人公のゆうげん(違)は、生まれつき無感動症で感情がわからなくて涙も流せないつうことで、白翁が流してみせた人工涙の作り方、あれでは塩水を煮ても、蓋の裏につくのはあんまり塩分なくね? まあいいや、ゆうげん(違)が作るわけじゃないしな。
解説で巽孝之さんが「イマジネーション豊か」と書かれているように、透明な墓モニュとか、墓穴掘ってると思ったらその墓穴に自分が入っちゃうとか、砂が舞い上がって行って都市が現れるところとか、片方の眼では海があり人間が見えるのに、もう片方の眼で見ると砂漠でミイラが闊歩しているとか、ビジュアルイメージが良いなと思います。ただし、そのイマジネーションのつながりだけで、ところどころ話が推移している気はします。さて、それこと完全報復装置の戦車の名前が、小狐丸はないわーと思ったら、ほんとにないわーだった件。そんで結局わからないままか。つかなぜ知ってるのか。
それにしても名前が自己を規定するという観点に立てば、この感想で宥現のことをゆうげん連呼しちゃいけないんだろうなと思ったりもします。
しかし戦車、外部メンテナンスなしでも稼働する高機能っぷりはともかく、砲弾等は消耗品だから、補給なしではやってけないような気がしないでもないんですが。
ロジはどうなっているのかとか、人間から感情を抜いたら「未来」側の兵器になるところになにか飛躍があるなあとか、まあ、そういう部分は「過去」と「未来」が戦っていて時間が狂っていて、死んだはずの人間が生き返ったりやっぱり死んだり、戦車は「過去」側の兵器で、というようなことを幻想小説的に受け入れられるなら、気にしてもしょうがないですね。
過去=海=胎児イメージで、未来=砂漠=ミイライメージ。
なぜか昔から、砂漠になってる風景と、水に浸食されている風景は、同じコインの裏表であるという気がしていて、それはやはり広く共有可能な原初的イメージなのかしらと思います。
さて、この時、塩辛い涙が海をあらわし、ならば「過去」側に振れるということで、感情を抜いたら「未来」側ということが、了解されんでもないです。→エピグラムとまあ、そういうことはともかく、早川さんには、販売戦略であることはわかりますが、『完璧な涙』を初期傑作だの初期代表作だの言うのはやめて欲しいですね。コンセンサスが得られているようには思えませんので。
-
ちまちまと読み進めていた、積読本の『時間蝕』(1987年9月)が読み終わったのは、9月5日です。しかしもう10月も半ばです。わかりますね? 時間が蝕まれているんですよ!
と、露骨に寒い発言をかましたところで、感想いきます。例によって、あえて皮相的に、気になったところだけ書きますよ。(※ひょっとしてネタバレ注意)「渇眠」
『鏡像の敵』(2005年8月)に再収録されたものを、出版当時読んでいるはずなのですが、かなり忘れてる感がものすごいです。この永久逃亡犯と永久刑事さんの話が読みたいからと、復刊ドットコムの『時間蝕』復刊希望に一票投じることまでしたというのに、どういうことかわかりません。
それはともかく、読み返していたらうっすら思い出したりしつつ、永久逃亡犯と永久刑事というモチーフと、宇宙船のランバボンて名前は雪風の同僚のランヴァボンと表記違いの同じ名前よね、お気に入りなのかな、とかそんなまともな感想を書いてる場合じゃねえ!
というのは、某所を読んでいて目が点になったからです。該当箇所の永久刑事と永久逃亡犯の会話を抜き書きすると、
刑事:「……なぜ殺した。恋人を」(『時間蝕』p.33 l.4)、逃亡犯:「男だったよ。あいつはおれの妻を殺そうとした。だから殺ったんだ」(同p.33 l.5)「恋人という男は情報屋だった。」(同p.33 l.11)。
何だこの会話は…?!
いや、彼がバイ・セクシャルであることがどうのこうのじゃなくてね、でもさすがにこんな会話してたら、『鏡像の敵』を読んだ時に印象に残ってるはずなのに、ええっ?
と思って、ふと『鏡像の敵』の「渇眠」をぱらっとしてみたら同じところが、
刑事:「……なぜ殺した。女房の不倫相手がそんなに憎かったのか」(『鏡像の敵』p.34 l.4)、逃亡犯:「あいつはおれの妻を殺そうとした。だから殺ったんだ」(同p.33 l.5)「おれが殺った男は情報屋だった。」(同p.34 l.11)、
となっててあれれ? そりゃあ印象に残っとらんですわ、だってよくあるシチュエーションだもの。
と、己の記憶力がそこまで悪くはなかったことを喜びつつ、なぜ「渇眠」が『鏡像の敵』に再録にあたって(※)こんな変更がなされているのか、気になって気になって、もう感想文どころじゃないので、はなはだ遺憾ながらここで終わります。
ただ、逃亡犯のおれが「今度は、おれが追いかけてやる。」(『時間蝕』p.75 l.9/『鏡像の敵』p.78 l.5)、「デック。今度はおれが追う番だ」(『時間蝕』p.80 l.7/『鏡像の敵』p.83 l.8)と、刑事(デック)を想定して宣言するところは、追う者が追われる者に、追われる者が追う者になるという転換がなされるだけでなく、渇眠@時間蝕の方はなんとなく性的な意味合いを(より)帯びるようではあるなあ、などと思いました。「酸性雨」
この一編のみ、『鏡像の敵』に収録されなかったので初読になります。割とライトな推理物って感じで、こっちも刑事さんが出てくるのね。お菓子作りが趣味なので、もっとハードボイルド風になるかと思ったらそうでもなかった。(なんか論理的整合性がないなー)ただ、『ライトジーンの遺産』が連想されますね。
酸性雨というと、最近はあまり耳にしませんし、本当のところ被害等どんなものなのかなあというところもありつつ、イメージとしては全てを錆びつかせ腐食させる雨や霧というのはロマンですよね。まあよく考えたら、そんなものが本当にあった場合、家具や車とかよりもまずお肌がやられると思うから、絶対ヤだけど。
それはともかく、なんか大文字縦書きTOSHI表記が恥ずかしい。いや今これ横書きだから、そうでもなく見えるだけで、縦書きやったらKYOTOと書いてあってもなんか恥ずかしいみたいなそうゆうの。だって日本語の文章なのに。
未だにこれだけ再収録されてないのは、このTOSHI表記の恥ずかしさも関係あるような気がする。いや、諸般の事情だろうけど。「兎の夢」
「渇眠」と同じく『鏡像の敵』に収録されたものを読んでいますが、PABが出てくる以外のことを、ほとんど覚えていないという体たらく。読んでたら、まあなんとなくその理由はわかりましたけど。
だってなんかこう、女結婚詐欺師の遣り口みたいなアレがナニで。まあ、どうでもいいやその辺は。問題なのはPABです。でもこれに出てくるPABは『帝王の殻』のPABとは違って、本体は据え置き型でキーボード入出力もできる、普通にPCみたいなやつですね。
また、PABが出てくるところから『帝王の殻』とつながりがあるかに思えますが、〈火星三部作〉全体としては「兎の夢」とはまったく関係ない、いえ関係ないことにされているようです。
まあ正確には『時間蝕』の「兎の夢」がではなく、『鏡像の敵』の「兎の夢」が、ですが。というのは、兎の夢@時間蝕に出てくる主人公の名前は惟谷慈明(よしあき)となっています。その苗字の読みはたぶん「これたに」でしょう。しかし兎の夢@鏡像の敵では、椎谷慈明(しいやよしあき)とよく似た漢字に変更されています。
さて、『膚の下』をお読みの方は先刻ご承知のように、『膚の下』にも「惟」という漢字を苗字に持つ重要人物が出てきますね。ということは、「兎の夢」の主人公の名前が「惟」谷慈明であると、おそらくPABが『帝王の殻』と関係する以外は特に〈火星三部作〉とのつながりのない「兎の夢」が、「惟」の字を介して『膚の下』とも結び付けられてしまう。ということを回避するために、「惟」谷ではなく椎谷に、兎の夢@鏡像の敵では苗字の変更がされているのでしょう。
なお、慈明という下の名前につきましては、よくある人名漢字以上の意味を読み込むのは、過剰な反応でしょうから、ここでは考えません。
そういうことはともかく、ポリグロットという名前はあまり格好良くないのよねーと、今回も思いました。「ここにいるよ」
同『鏡像の敵』に収録されたものを読んでいますが、同じく内容はだだ忘れ、再読にいそしんでいたら、うっすら思い出しルートを辿りました。
で、感想ですが、子供が自分の監督下にいる時に、行方不明になったり死なれたらたまらんよなあとか、ケロ…だとどうしてカエルが連想されるのかしら、だから帰り来るなのかしらーとか、そんなことを思いました。
そんで、わりとこれ要素がそっくり『膚の下』に流れ込んでいることに気づいて、びっくりしました。大地通信や、単性族のどうたらこうたらが、「膚の下」以降の機械人が全ての機械人と意識を共有できるという、まるで『火の鳥』のロビタ化をどうやって可能にするかを説明しとるなー、という感じで。まあ、機械人については、『膚の下』においても分明にはされていませんが。
というわけで、竜と言ってもなんとなく、緑色のカエル羽付き鱗付きが良いかと思います。ではでは。
※ここでは『鏡像の敵』に再録された時点で改訂があったかのように書いているが、よく考えれば、『時間蝕』第二版以降に変更された可能性もある。「兎の夢」の主人公の名前にも同じことが言える。もしも『時間蝕』の第二刷以降があれば、だが。
今後の課題ということで一筆。(追記2010/11/08) -
読了日は2009年12月22日だっていうのに、なかなか書けなかった感想の始まりですよ。
さて私が、主人公にしておおむね語り手の脇田三日月少年に言いたいことは一つだけです。
だってそれ以外は、他に何書いたって、自己嫌悪と同族嫌悪にまみれた、説教臭い上から目線のどうしようもない文章になりそうなので。ふっ、認めたくないものだな(以下略)。
どうにも読んでいて、とある男女が出会って恋をする話のはずなのに、いつまでたっても通りすがっているばかりで、こいつらさっさと知り合えよてな映画を観てイライラやきもきするような感じですね。ああでも、そんな風に思わせることこそ監督の狙いなんだし思う壺か! みたいな。ま、ともかく、きらめいても爽やかでもなく何かに一途に打ち込んでもいず、どっちかというと暗黒の十代という、そんなごく普通の青春を送っている脇田少年は、いったいなんでまた月子が自分の生んだ幻かどうかで悩むのでしょうか。
やだもう、三日月が変な名前なのはそうだけど、「じいさんが刀を趣味にしていてね」(p.74)だけで、夕方、西の空に輝くあの細い月を差し置いて、国宝の三日月宗近がすっと出てくるような謎の転校生で刀剣マニアなオタクっ娘の美少女がいるわけないじゃないの。そんなのあなたの願望よ、願望。
いえ、世の中は広いから、そういう娘が実際にいて出会うことがないとも言い切れはしないわけですが。しかし、そんな逸材にしては刀のうんちくを語ったりしないですし、小狐丸じゃなくて良かったとか言いますしね。私は小狐丸の方がええし、藤四郎も悪くないと思うわよ?それに自分の名前の三日月が、じいさんのつけた名前と思っているあたりがまだまだよネ。
そんなもの、祖父は宗近とつけたかったけれど、冷たい嫁が大反対。
「このオールド イズ ニューな感じがわからんか!」
「お義父さんの感性は古いんですよ。私の子なんですから」
てな感じでもめにもめたので、あいだをとって三日月で手討ちにしたんです。
とか、もうちょっと面白いことを考えなさいよ。じいさんの趣味だけじゃなくて、家族の不和と妥協の産物がぼくの名前だ、ぐらいのことは言ってみせたらどうなの。あら、なぜか言いたいことが一つより増えているような気がするから、そろそろこの辺でやめましょう。
まあ、あれですわ、心配せんでも大人になるなんて単に歳食っていくだけのことと、そのうちわかりますわ。大人になったら。そして、わかった頃にはもう遅すぎるのです。
って、ナニこのありきたりな結論は! -
『狐と踊れ』を読み終わったのに、なかなか図書館から『アンブロークンアロー』が入ったという知らせが来ないので、適当に感想でも書いてみようかと思いました。
でも、SF小説としてどうのこうのとかは面倒くさいので、あえて皮相的に語ってみます。おお、この言い方便利だな、気に入った。
というわけで以下、あえて皮相的に感想。「ビートルズが好き」
ビートルズの音楽は好きだけど、ビートルズという音楽グループそのものは好きではないというのは、よくある作品と作者の関係問題で、私は神林作品は好きだけど著者本人が好きなわけではないということだろうか。ただ話の流れからすると、このブログはやめなきゃいけないことになるので、それは認められない。あと、私が好きなのが梶野少佐である時、私は本当に〈火星三部作〉という個々の小説そのものが好きかどうかは不問にしてもいいということだろうか。ていうか自分が何言ってるのかよくわからない。「返して!」
近親相姦願望がないので何とも言えない。やっぱり、実姉よりも兄嫁であったり、義母とかそっちじゃないのかなあと思うのは、私が門外漢(なんの?)だからなのか。しかし、近親相姦を扱う上でのメリットは、話に錯綜した複雑な人間関係を持ち込まなくてもいいということだろうとは思う。「狐と踊れ」
美しく才能にあふれる妻がありながら、若く美しい小娘からも誘惑されるなんていうシチュエーションに憧れがないので何とも言えない。この分量では主人公にそれほどの魅力があるとは思えず、しかしそもそも主人公に魅力なんか求めてる場合じゃないわけで、なら主人公の魅力などあったところで無駄である。胃が逃げ出すというのは、臓器崩壊に比べたら確かにファンタジックにして斬新なアイデアだけど、それは胃がそんな風に人体から遊離するはずがないという、より強固な現実感覚に支えられているようにも思える。「ダイヤショック」
私はこういう便利グッズというか不思議グッズが出てくる話が、好きだなあ。「レディ・キラー入門」が出てくるあたりの流れがいいよねと思う。66524・α・III星のヒト型生物をカッパ・モドキと呼ぶからには、おれは日本人なのかしらん。千倍米はないのか。「敵は海賊」
読んだのがさすがにウン年前では、アウトラインは覚えているけど、内容そのものはほとんど忘れていた。また、初読の時にはチラとも思っていないはずだが、舞台となるアモルマトレイ市の特異性に、これは一種の館ものではなどと穿った読みを持ち込んでしまったあたり、色んなものに毒されていて、もうあの頃の無垢さには戻れないのね。てか正確には孤島ものだと思うが。ともかく、終盤はほとんど忘却していたため、楽しく読了。「正義の眼」と「短篇版」は、やっぱさっさと読んでおかなくてはという気になった。「忙殺」
アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」のエンドレスエイト編の元ネタの一つは、もしやこれではないかと読んで思った。この話の主人公に感情移入するにいたって、ようやく私はキョンが長門に対して590年分もいったいどんな気持ちで…などと考えたことに得心がいった。しかし、傍観者たる長門はバックアップを受けていて絶対間違えないだろうから、やはりエンドレスエイト編は長門のターンだというのは、いささか強引の感なしとは言えない。おれの切実さとは比べるべくもないな。なんとなく、『天国にそっくりな星』を連想する。「解説/眉村 卓」を読んでいて、巷間ハードSFという呼称を目にすること多かれど、ヘビーSFはついぞ聞かないのは、語呂が悪いからだよなたぶんと思う。
そんだけ。